葬儀場・斎場の歴史
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火葬場の歴史
仏教葬と火葬には密接な関係があると言われています。明治29年のデータでは火葬率は26.8%となっていることから、江戸時代の全国の火葬率は2割程度ではなかったかと思われます。
しかし、江戸(東京)や京都などの大都市および浄土真宗の勢力の強い北陸地方では、火葬率が高かったようで、火葬率が65%を超えている都道府県は、北海道、東京、新潟、石川、富山、福井、大阪、広島の8つです。京都市では、明治時代初期に市街化墓地へ土葬が禁止されたこともありますが、1906(明治39)年の時点で既に80%の高率を示していますから、江戸時代にあっても火葬がかなり普及していたものと思われます。
しかし、明治政府は1873(明治6)年に火葬禁止の布告を出します。火葬は仏教的であるとの理由です。これにより東京の火葬寺が火葬の長所を訴えた『火葬便益論』を述べます。そこでは、土葬にすれば面積をとり墓だらけになる、火葬にすれば遺骨を簡単に郷里に送ることもできる、分骨も可能と、都市生活に便なることを強調します。仏教の思想をからめなかったのは神道の国教化を進める政府に配慮してのことでしょう。
そのため政府は2年後にはこれを撤回します。その許可条件として、市街化から離れること、臭煙が人の健康を損なうことのないよう注意して煙突を高くすること、火葬場と墓を分離することなどが記されています。京都市は市街化にある寺院墓地への土葬を禁止し、東京も明治24年には市街地での土葬は禁止しました。
当時の火葬は夜の8時から10時までの深夜に行い、拾骨は午前8時から午後3時に行うことと定めてあります。明治17年に「墓地及埋葬取締規則」が制定されています。昼間火葬、即日拾骨が可能となったのは昭和2年、東京の町屋火葬場が重油炉火葬を導入して以降のことです。
火葬が推進されたのは明治30年の伝染病予防制定以降です。法定伝染病患者の遺体は原則火葬と定められました。現在、火葬場および墓地は「墓地、埋葬等に関する法律」(墓埋法)によって管理されており、厚生労働省の管轄です。明治以来、墓地や火葬は公衆衛生の観点で行政に理解されていたことがわかります。
江戸時代には、仏教寺院に「火屋」と呼ばれる火葬施設がありましたが、伝染病予防法制定以降は火葬場の統廃合、改修、新設も進み、自治体もこの経営に参加するようになりました。
全国の火葬率は順調に上昇していきます。明治29年の26.8%から明治42年には34.8%となり1940(昭和15)年には55.7%と過半数を超えるようになりました。しかし火葬場は毎回設営する必要があったため、火葬は高額な葬法として理解されていました。したがって、火葬場での荼毘は貴族・武士階級のものでした。庶民が火葬する場合には、野焼きを行っていたようです。
江戸時代になると寺院内に炉を設けた火葬施設ができてきましたが、燃料を薪などに頼るため火力が弱く時間がかかりました。また火葬の煙や臭いによって付近の住民に問題を生じていたようです。
明治時代になると公衆衛生を理由にその管理も厳しくなり、建物内に火葬炉を納めた近代的火葬場第1号として、明治11年に浄土真宗本願寺が建設した「両本願寺火葬場」(現在の京都市中央斎場)があります。
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代々幡斎場の歴史
代々幡斎場の歴史は古く、江戸時代にさかのぼります。
いくつかの寺院がまとまり、火葬場(当時は火屋といいました)を運営していたのが始まりです。代々幡斎場の前身は文禄年間(1592〜96)には、四谷千日谷にありました。近くの千駄ヶ谷村をへて、1664年、代々木村狼谷(「大上谷」から)に移ってきたようです。火葬をする小屋が3軒あったそうです。それでもやはり、江戸五三昧の一つ、渋谷の火葬場は江戸辺境の地に移されたようです。
代々幡斎場、の名称は、現在の所在地の昔の名前に由来します。
その名前は、「豊多摩郡代々幡町」です。代々幡町の歴史をさらに紐解いていきますと、1889年(明治22年)に市制・町村制が施行され南豊島郡の代々木村と幡ヶ谷村が合併して誕生した「代々幡村」が始まりです。
また、「東京市区改正設計」で、初めて火葬場は都市計画のなかに組み入れられ、桐ヶ谷・代々木・落合・町屋・萩新田の5ヶ所が決定されましたが、公営化はほぼ計画のみで、昭和11年唯一の都営火葬場「瑞江葬儀所」の設置にとどまります。
1893年(明治26年)、東京博善の前身は代々幡の火葬場を吸収合併し、現在も(株)東京博善により「代々幡斎場」として経営運営されています。
その後1896年(明治29年)に南豊島郡と、東多摩郡とが合併したことで豊多摩郡ができ、さらに、1915年(大正4年)に代々幡村が町になり「豊多摩郡代々幡町」となったのです。
1932年(昭和7年)。豊多摩郡は丸ごと東京都に編入され、渋谷町、千駄ヶ谷町にまとまって渋谷区、となりました。
この時に代々幡町が消滅したため、その名前が現在でも残っているのは、代々幡斎場だけ、ということです。
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桐ヶ谷斎場の歴史
桐ヶ谷斎場のあるあたりは旧桐ヶ谷村であり、名前は古の地名からきている。
将軍・徳川家光の時代に芝三田の長松寺の荼毘所を当地の霊源寺に移したのが始まりといわれている(現在は霊源寺は斎場の向かいにある)。当初は簡単な造りであり昼夜火葬が行われていた。明治初年に昼の火葬は停止され、明治18年に寺と分離され匿名組合の経営になる。昭和4年に現在の経営者である博善社の経営になり今にいたる。 -
落合斎場の歴史
落合斎場の前身は市谷の蓮秀寺の荼毘所です。十八世紀初め頃に蓮秀寺の末寺の法界寺に荼毘所は移され、これが現在の落合斎場の場所・上落合です。法界寺は火葬を専門とするお寺だったようです。
「東京市区改正設計」で、初めて火葬場は都市計画のなかに組み入れられ、桐ヶ谷・代々木・落合・町屋・萩新田の5ヶ所が決定されましたが、公営化はほぼ計画のみで、昭和11年唯一の都営火葬場「瑞江葬儀所」の設置にとどまります。
明治26年、東京博善の前身は落合の火葬場を吸収合併し、現在も(株)東京博善により「落合斎場」として経営運営されています。
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町屋斎場
ここは荒川区の史跡文化財となっており、歴史を説明した荒川区の説明板が斎場の西に掲げられています。そこにはこう記載されております。
町屋火葬場は江戸五三昧(ざんまい)の歴史を伝える。江戸五三昧とは、千駄木(駒込)・桐ヶ谷(荏原)・渋谷(代々幡)・炮縁新田(葛西)・小原塚(千住)にあった火葬場をいう。小塚原の火葬場は寛文九年(1669)に下谷・浅草あたりの各寺院から移されたもので、火葬寺・火屋などともよばれた。
明治二十年、周辺の市街化により廃止、二年後に町屋に移転した。一方、火葬場の増設許可が下り、同二十年、東京博善社が日暮里火葬場を新設。その後、同火葬場は町屋火葬場の隣地に移ることになり、同三十七年の移転とともに、町屋火葬場と合併した。
上の小塚原(南千住)は、四代将軍家綱が寛永寺に墓参りにいき、火葬の臭気にいやになり、下谷・浅草から移転させたそうです。小原塚には火葬寺が20建てられました。20の寺は集団で火葬の仕事をうけおっていたようです。
明治二十二年「東京市区改正設計」で、初めて火葬場は都市計画のなかに組み入れられ、桐ヶ谷・代々木・落合・町屋・萩新田の5ヶ所が決定されましたが、公営化はほぼ計画のみで、昭和11年唯一の都営火葬場「瑞江葬儀所」が設置にとどまります。